#05 「fabricated myth」解説(テーマ・背景)

「fabricated myth」作品解説です。その一。
ここではテーマと背景について述べてます。
基本的にFRENZ運営に提出したのをたたき台に改変してます。長いよ。

テーマ

偶像崇拝」をテーマにしたモーション・グラフィクスです。
モーション・グラフィクスとしての視覚的な気持ち良さと並列に、各シンボルがひとつの物語の記号として機能し、時間軸に従って物語が進行するような、文章系の作品を見た際に近い心の動きを喚起させることを試みています。

背景

fabricated myth = "でっち上げられた神話"

最初に。
自分はカトリックのクリスチャンなのですが、あまり敬虔なクリスチャンでもないので、このような発想をしてしまいます。多分敬虔なクリスチャンの方から見たら怒られそうな発想をしていると思う。
というか「ネット上で宗教・野球・政治の話をしたら怒られるよ!」みたいなことは良く言われるので生暖かい目で見守ってあげてください。

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現代、様々な新興宗教が溢れていますが、考えようによっては、現在三大宗教としてマジョリティを得ているキリスト教や仏教、イスラム教も、創出当時は新興宗教だったわけで。
「宗教」としてのパワーバランスを考えた時に、宗教が個々人の精神の土台であることから、宗教が「宗教として成立しうる」精神的な土台(あるいはそれは社会的な土台であるかもしれない)が崩れない限りは、この先も三大宗教は三大宗教としてマジョリティを獲得するのだろうとは思いますが、現在「新興宗教」として存在している宗教のうち、何が将来新しい勢力として台頭していくのか、ということは想像できないものです。
ちょっと前にある方と、「テクノロジーの発展によって、現実に存在する、力のある人との関係がより近くなった一方で、その人の作られた人格の裏を知ってしまい、純粋な憧憬は薄れていく。その時に、純粋性が決して薄れない二次元のキャラクターこそが、現代の神話として次世代に宗教として繋がっていくかもしれない」という話をしましたが、そのような二次元のキャラクターが後々に宗教として成立していくということは、ギャグでなく有り得るかもしれません。
個人的に、「ラブプラスのアーケード版で性病が伝染する可能性がある」といったニュースを見た際に、そういった現代神話をなんとなく感じ取ったけれども。

そんな、「どんな新興宗教が後々台頭するか分からない」ということと、「現在の社会では新興宗教と言うのは冷ややかな目で見られている」という二つの状態に思いを馳せた際に、過去のユダヤ教キリスト教の対立に似たようなものを感じました。
「fabricated myth」のベースとなる物語はフィクションですが、その中にはユダヤ教キリスト教の対立のイメージを重ね合わせています。

イメージとしてはユダヤ教をやや過激にしたものに近く、用いられる「人形」のモチーフは、ユダヤ教的視点から見たキリスト教に於けるイエス・キリストの立ち位置にやや近いもの、というイメージをしています。
ユダヤ教新約聖書を認めず、旧約聖書のみを原典として認定しており、未だに旧約聖書内で犯された「原罪」は未だに赦されていないものとしています。
対しキリスト教イエス・キリストの存在を、旧約聖書で犯された「原罪」は、キリスト教の信仰により、イエス・キリストに触れることによって赦されるものとして認めていますが、この、キリスト教がイエスを「原罪を赦すための存在」として認定した、という点は、ユダヤ教徒から見ればでっち上げられた存在=一種の「偶像」として見えるのではないか?という視点で制作しています。
この辺りの「原罪」に関する各宗派の捉え方は、各宗派によって非常に多岐に渡り、非常にデリケートなものであるので、あまり深く捉えずにぼかすようにしています。詳しくは以下。

wikipedia:原罪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%BD%AA

今作「fabricated myth」における〈人形〉と〈民〉の対立と、ユダヤ教キリスト教の関係性との相違点は、イエス・キリストが、生まれた時から「奇跡」を起こす者の能力を神から授けられている、ということに対し、ここでの〈人形〉は、人々から崇拝された過程によって、神から「奇跡」を起こす者としての能力を授けられた、という点と、〈人形〉が女性という視点で描かれている点です。
〈人形〉を女性として描いた背景としては、「恋愛」も一種の「偶像崇拝」のようなものである、という視点を盛り込みたかったからです。
それは特に共依存的な恋愛に関して顕著かな、と思います。例えば遠距離恋愛なのにネットを介して、「アタシは貴方がいないと生きていけない」「僕も君にだったら殺されてもいい」といったような共依存的な恋愛が行われたとして、その恋愛が実る可能性はあまりないのではないか、と思います。
このような恋愛形態において、互いの存在がそれぞれの精神的な基盤となっている点が、「恋愛」よりも「宗教」に近い、と感じます。
実体のある人間に対する純粋な憧憬みたいなものが失われているいま、このような恋愛は持続しません。共依存の恋愛関係の間は、まるでそれは〈奇跡〉のように幸福な時間かもしれませんが、その隙間に相手に対する不信が腫瘍のように残っていき、それが段々と増幅し、ある瞬間にそれは反動として相手に返ります。「アイツを殺して俺も死ぬ」と言ったような感情。
そのような恋愛対象と言う名の「偶像」に対する〈懐疑〉と〈破壊〉の感情を、字義通りの「偶像崇拝」と重ね合わせて描いています。