#12 「ice」作品解説:コンセプト、世界観設定

 カイルの死体は寝椅子の上で発見された。機器の状態は似姿記録の転送中であったことを示していた。直接の死因はショック性の心臓麻痺で、転送中の事故と思われた。
 これが単純な事故であれば、スキャンダルになる。数値海岸サーヴィスの重大な欠陥を意味するからだ。警察がカイルの視床カードを司法解剖して判明したのは、「死」に匹敵する苦痛と衝撃が、常識では考えられない密度で一気に転送されたことだった。死の瞬間とその前後のわずかな時間だけを、高密度に編集した素材が一気に転送された。わずか三分のあいだに五百回もの「死」がカイルの上で実行されたのだ。この衝撃に耐えられる人間はいない。事実カイルは最初の三十秒で絶命していた。あとの「死」は死体に上書きされつづけていたのだ
 :飛浩隆著 短中編集「ラギッド・ガール」内の短編「クローゼット」より引用

FAQ

Q. 前奏長いよー
A. 個人的には、ディレクションでは最初の40秒ほどは、作品が始まる前のイントロダクションのBGMとしての吹雪(あるいはサーバの稼働音)としてのサウンド・エフェクト、といったイメージでwhooさんにお願いいたしました。
  そのため、僕自身は「最初の40秒は、まだ曲は始まっていない」という解釈をしています。オフライン上映の演出を考え、「こういうイントロダクションあったら音響効果素敵だろうなー」といった感じです。
  whooさんにはアルバム収録時にSEが邪魔な場合削っていいです!とお伝えしており、実質は4分程度の曲になると考えております。
Q. 字が小さいよー
A. FRENZ提出用の.swfが640x480pxだったため、そのサイズの領域をイメージした文字やシンボルのデザイン設計になっております。
  ニコニコに上げる際に画面サイズが小さくなるということを考慮しておりませんでした……申し訳ありません。
  文字をしっかり読みたい!という稀有な方は高画質.mp4版や、スペックに自信のある方は.swf版を是非!
  文字の出る間隔が短いのは、サブリミナルによって特徴的な言葉(カッコ付きの単語など)がパッと目に入ってくる効果を狙っています。そこから反復再生によって、段々と視聴者側に物語を咀嚼してもらう狙いがあります。
  「tears of overflowed bits」でも狙った効果なのですが、見返すと全体を通すと瞬間的に現れる文章量が多かったかもしれません……

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「ice」のコンセプト、世界観設定は以下より。活字好きな人向け。
各シーンのプロットは長くなったのでまた次エントリの方で用意しようと思います……いつになるやら……

コンセプト

〈創作的死〉と〈創作的死骸〉

 「創作」という行為は、クリエイタが創作物のフィールド(=小説や音楽、映像等)において、一種の〈神〉のような視座を獲得する事が出来る行為とも考えられます。映像や小説等において、クリエイタはそのフィクションの中に登場する人物に〈生〉又は〈死〉を容易く産み出し、蹂躙出来る立場と成り得ます。そして、そのフィクションが公開され、多重に再生されることによって、クリエイタは知らずうちに多くの〈生〉や〈死〉を重ね書きしていく存在となっていきます。

 例えば、ある作品中で、二人の登場人物が死ぬとしましょう。
 前作の「tears of overflowed bits」では、視聴者が一回再生する度に、仮想世界のアバターである男女二人が死にます。現在、「tears of overflowed bits」のニコニコ動画での再生数は4,000再生ほどですが、単純計算で作中の男女は、二人合わせてのべ8,000回の〈死〉を上書きされている、延べ8,000人が殺されている、と言えるでしょう。サイト内での再生数などを考えると、あの二人は大体現段階で3万回ほど殺されています。そうなると、僕は延べ3万人を殺した大虐殺者として断罪されるべき人間であり、あの作品がサイト上やニコニコ動画上で公開され続け、あるいは個々人のパソコンに保存され見返される限り、二人は永遠に〈死〉を重ね書きされることになるでしょう。
 このような〈死〉を産み出してしまうのは、ある種のクリエイタの「原罪」であるようにも思えます。人間が動物を殺して食べて生きていくのがある種の「原罪」であるのと同じように。

 フィクションにおける〈死〉は、現実における「死」とは異なり、「何度も上書きされる」という特性を持っており、これを〈創作的死〉と呼ぶことにします。また、クリエイタによって〈死〉に至る運命を決定づけられたフィクション中の登場人物たちを〈創作的死骸〉と呼称します。

今作「ice」でやりたかったこと

 上記の考えを汲むと、今は、「一億総クリエイタ時代」=「誰もが〈神〉として振舞える時代」であると同時に、「誰もが、作品世界中の登場人物の人権を軽やかに蹂躙することが出来る時代」=「一億総〈虐殺者〉と成り得る時代」と捉えることも出来ます。
 このような、『デジタル的死生観』とも呼べる、情報社会における死生観の特殊性や、人であるはずのクリエイターが〈神〉としての特性を持ち、あたかもフィクション中の登場人物を奴隷のように扱えてしまう「創作」という行為の異常性、あるいは「創作」という活動をここまで容易たらしめた環境の一種の異常性、などなどを暴き出せるような作品になれれば、と思いつつ制作しました。

 …とか言いながら、基本的には「氷に閉ざされた世界」を描きたい、というのが第一動機だったりします。
 大好きな小説である、アンナ・カヴァンというSF作家が書いた伝説的な作品「氷」をモチーフにしつつ、如何に現代的な形で改変できるか、といったところを狙っていったらここまで設定が厖大になりました。
 あとは前作の「tears of〜」で殺してしまった二人への贖罪も兼ねました。死を重ねるすべての〈創作的死骸〉を剥製にするような作品を目指しています。

 …ちなみに。この作品では「作品を再生する毎に創作物内のキャラクタに一回ずつ〈死〉が与えられる」ことがテーマとして描かれていますが、実はこの作品自体も「作品を一回再生する毎に、創作物中の仮想世界が一回滅亡する(=氷に閉ざされる)」という役割を背負っており、そういう意味で「ice」はある意味『デジタル的死生観』をメタ的な形で描出している、とも言えるでしょう。
 この記事を書いている現段階では、有難いことに、ボーカロイド版とやなぎなぎさん歌唱版合わせて、ニコニコ動画内で48,000回程度再生されています。つまり、ネットワーク上に浮かぶ仮想世界が延べ48,000回滅亡したことになって、この状況は『デジタル的死生観』の情況を上手くメタ的に表現しているのではないかな、と思います。

Vocaloid楽曲としてのお誘いを受けて

 今回は、ボーカロイドPであるwhooさんのお誘いを受けて制作しましたが、ある意味では、ボーカロイドという存在も、クリエイターによって決定づけられたフレーズや歌詞などを強制的に「歌わされる」存在であり、一種の奴隷的な役割を請け負っているようにも思えます。ニコニコにも「仕事を選べないミク」みたいなタグがあって、あのタグが深いところで意味していることってなかなかおもしろいなーと思うのですが。
 そのあたりを考えると、「ボーカロイド」という存在自体も、「クリエイタに決定づけられた無慈悲な運命」を受ける、一種の〈創作的死骸〉としての特性も帯びているのではないか、と思います。

 「生身の人間が持つ歌声の特徴を排した、機械的・奴隷的なヴォーカル」として存在がここまで広がり認知され、利用されている、ということも不思議なように思えます。
 「機械によるヴォーカル」は、交感の不可能性を模した崇高な存在として追い求められてきました。現在の「ボーカロイド」は、その「天使」のような崇高な存在の追求が結実された存在のようにも考えられます。現に、ヴィリエ・ド・リラダンによって刊行された、初めてアンドロイドという単語が生み出された小説『未来のイヴ』では、現代性と崇高さを象徴するアンドロイドが「女性の歌手」という形で描かれています。
 約二世紀を経て、そのような崇高な存在を我々はデジタルな世界の内に獲得し、一般に認知・流布されるに至った。しかしそのような「崇高さを得られる体験」が現実のものとなった一方で、崇高性の裏に現れる「奴隷性」のようなものが表出してきたというのがおもしろいなーと思っています。このあたりの話は、「独身者機械論」という美学の論考の受け売りですが(http://blog.livedoor.jp/nina313/archives/51332978.html)……

 今回、whooさんのご厚意により、やなぎなぎさんによるボーカル版も公開させていただくことになりましたが、「ボーカロイド版が好き!」という人と「やっぱり人の歌うボーカル版が好き!」という人が分かれるのではないか、と思っており、またその違いこそが、ある意味では「ボーカロイド」という存在の特殊性の表出ではないかなーと思っています。是非趣の違いをお楽しみ下さい。

世界観設定

仮想世界 [cocytopia]

 ・[cocytopia]《コキュトピア》は、創造主によって、「死」という属性を与えられた全ての創作物が、幾重にも「死」を重ね刷りされる仮想世界
 ・現実世界に存在する創作に関するコミュニティ(ニコニコ動画やpixivみたいなイメージ)上に存在する作品中で、死や、死に至る程の苦しみを受けたキャラクターだけが、あるアルゴリズムによってこの仮想世界に集わされる
 ・[cocytopia]では、「死」に至る運命を与えられた登場人物たち=〈創作的死骸〉が、その作品がほとんどの人の記憶から忘れ去られるまでの長い間、ずっと死に至る拷問を繰り返し重ねられている
 ・人の記憶からその創作物が忘れられていくたびに、段々と〈創作的死骸〉は氷に包まれ、やがて全ての人の記憶からその創作物が喪われた時、〈創作的死骸〉は拷問から解放され永遠の氷の内に眠る

 ・[cocytopia]《コキュトピア》のネーミングは、ダンテの有名な長編叙事詩神曲』における、地獄の最下層にある氷地獄「コキュートス [Cocytus]」に、理想郷である「ユートピア [utopia]」を組み合わせた造語。
 ・「コキュトス」は嘆きの川とも呼ばれる氷地獄。同心の四円に区切られ、中心部には神に反逆した魔王ルチフェロ(=サタン)が氷の中に永遠に幽閉されている。[cocytopia]では、そこに永遠に〈死〉の拷問を受け続ける〈創作的死骸〉が安置される氷漬けの仮想世界、というイメージを重ね合わせている。
 ・また、理想郷という意味合いを持つ「ユートピア」を仮想世界の名に用いることによって、「クリエイターによってキャラクターを自由に蹂躙できる環境は理想郷かもしれないが、蹂躙されるキャラクターにとっては地獄のような環境である」といったアイロニーを織り交ぜる。

〈アンナ〉と〈彼〉の存在について / 作品の概略

 ・作中での〈彼〉は、[cocytopia]をデザインし、また[cocytopia]の管理者権限を持つ、一人の現実世界側の人間を指す。
 ・また作中で登場する少女〈アンナ〉は、〈彼〉によって生み出され、[cocytopia]に転送された、仮想世界における最初の〈創作的死骸〉であると同時に、[cocytopia]に転送されるすべての〈創作的死骸〉に対する死刑執行人の役割を兼ねたアバターである。
 ・このアバターは、〈創作的死骸〉を殺す、という行動によって、全ての〈創作的死骸〉の死を体内にインプットし、[cocytopia]のデザイナーである〈彼〉と死の情報を共有することができる。
 ・逆に、全ての〈創作的死骸〉を〈アンナ〉の体内にインプットするということは、〈アンナ〉はそれら全ての〈創作的死骸〉の死を経験することになる。
 ・結果、〈アンナ〉の体内に重ねられた「死」は、あらゆる〈創作的死骸〉の延べ再生数と同一となり、何億、何兆もの莫大な「死」の経験を〈アンナ〉は経験する。
 
 ・〈アンナ〉にとっての「クリエイタによって決定づけられた無慈悲な運命」とは、「[cocytopia]の死刑執行人として、[cocytopia]に送られるすべての〈創作的死骸〉に刑を執行する」ことを指す。
 ・〈彼〉は〈アンナ〉を、[cocytopia]において〈創作的死骸〉に対する「恐怖」として、全ての〈創作的死骸〉にインプットさせられるようにデザインする。
 ・〈アンナ〉は〈創作的死骸〉に恐れられ、何の躊躇もなく死刑を執行し、あたかもそれが当然であるかのように、「死刑を行う」という与えられた運命を享受する。
 ・また、〈アンナ〉は同時に、すべての人々の記憶から忘却された〈創作的死骸〉を、[cocytopia]の中で氷漬けにすることによって、〈創作的死骸〉のデータを永遠に封印する=これ以上の「死」を重ね書きしないようにする機能を持つ。

 ・しかし、〈アンナ〉はやがて無慈悲な運命によって幾重にも「死」を重ね刷りされる拷問を受ける彼らを見ることに堪えられず、自らを含めて[cocytopia]を氷の中に閉ざすことによって、彼らの苦痛を永遠に封印しようと考える。
 ・〈アンナ〉は自らの行為が本当に彼らにとって救済になるのか、と逡巡するが、最後には、罪なき人々に苦痛を与えた自分自身が、最も罪深き人間であると考える。
 ・そして、〈アンナ〉はダンテの「神曲」でコキュトスの中心で氷漬けにされている魔王ルチフェロに自分自身をなぞらえ、[cocytopia]の中心に自分自身を据えたまま、全てを氷に閉ざしてしまう。

 ・仮想世界[cocytopia]が氷に閉ざされる、という現象は、すなわちネットワーク上に存在する全ての映像、音楽等のコンテンツがパケットロス(=応答不能)になる状況を指す。
 ・[cocytopia]が閉ざされた瞬間に、すべてのコンテンツは応答を止め、ネットワーク上における「クリエイト」という行為は終焉を迎える
 ・全ての創作物が存在せず、新たな創作物が生まれなくなった世界は、すべての人々の記憶から忘却されること、すなわち[cocytopia]が完全に氷に閉ざされるのを、静謐な氷の世界の中で永遠に待ち続ける。

ちなみに

 〈アンナ〉という名前は、前述の小説「氷」の著者「アンナ・カヴァン」の名と、もう一つ、「死」の重ね書き、仮想世界における「恐怖」の設定などに関して参考にしている小説、飛浩隆氏の「ラギッド・ガール」内に登場する女性「安奈=カスキ」から引用しております。
 自分が大好きで、またこの作品のモチーフとして使用した二つのフィクションに、〈アンナ〉という固有名詞が重要なものとして関わっているというのも、なんとなく神のオーダを感じさせられて好きです。
 キャラクタとクリエイタの名を重ねあわせて一つのモチーフとして用いる、というのも、ある意味では現実世界も何かしら高次な存在による創作物である、という、ある種の循環を感じます。「仮想世界でなにものかに生を与えたい / 被虐したい」という願望は、もしかすると逆説的に「現実世界の自分がなにものかに操られている / あるいはそう信じたい」という願望の表れなのかもしれません。
 仮想と現実が入り乱れたいま、特にそれを意識せざるを得ません。mixitwitterでネットの繋がりの人とリアルの繋がりの人がごっちゃになっていつの間にか双方に交流が発生しているのを見ると特に……